「心理療法家の人類学」のあとがき紹介の続きです。
私たちが心理療法の訓練を受ける中で感じる、戸惑いや苦痛、あるいは喜びについて、それがなぜなのかをDaviesは見事に描いています。
イギリスの訓練生と日本の大学院生が同じ体験をしているということは、大変面白いことだと思うのです。
本書の内容
内容に入っていく前に、本書が「心理療法の人類学」という分野の絶好の入門書でもあることは言っておきたい。
「なぜ心理療法は癒すのか」「心理療法の理論とは一体何か」「なぜ心理療法の学派は分裂を繰り返すのか」「心理療法はいかなる社会的状況のもとで発展したのか」。
そういった問いに対して、これまで人類学者や社会学者が様々な見解を提出してきたが、本書はその充実したレビューになっている。
本書を一読して、翻訳することを決意したのは、心理療法についての人類学的な議論が整理されており、今後「心理療法の人類学」を学びたい読者にとって、文献案内も含めて絶好の入り口になると考えたからである。
このことをまず押さえておきたい。そのうえで、中身に入っていこう。
「心理療法家になるとはどういうことか?」これが本書の問いだ。それは凡庸な問いではある。実際、「心理療法家になること」について書かれた本を、私たちは山ほどもっている。
いかなる理論を学び、いかなる技法を身につければ心理療法家になれるのか。あるいは、いかなる訓練を受ければ心理療法家になれるのか。良き心理療法家とはいかなるもので、悪しき心理療法家とはいかなるものであるのか。
そういったことが書き連ねられた教科書を私たちのコミュニティはすでに多すぎるほど所有している。ただし、そこで描かれているのは、あくまで心理療法家についての心理学的な次元での理解だ。
たとえば、「なぜ心理療法家になるために、自分自身が心理療法を受けなくてはならないのか?」この問いに対して、逆転移を利用できるようになるために、自らの無意識的なありようの理解を深めておく必要がある、などと心理学的な語彙によって心理学的な文脈での説明がなされる(この点はいろいろな説があるが、ここでは触れない)。
しかし、本書は違う。本書は「心理療法家になること」を社会の側から説明する。心理療法家の内側にうごめく心の力動ではなく、心理療法家を取り囲む社会の力動を解き明かそうとするのである。
だから、本書が注目するのは訓練機関だ。訓練機関はいかにして心理療法家を作り出すのか?そのとき、訓練生に対していかなる介入や、いかなる操作が行われているのか?その結果、訓練生はいかなる変容を遂げるのか?そして、訓練機関がそのように振る舞うのにはいかなる社会的合理性があるのか?そのようなことが本書では問われている。
「なぜ心理療法家になるために、自分自身が心理療法を受けなくてはならないのか?」この問いに対するデイビスの答えは、「そのようにして訓練生は心理療法的想像力を内面化するから」であり、「心理療法を受けてよい体験だった人のみが、その学派の心理療法家になっていくという一種の審査になるから」というものである。
デイビスは、心理療法家のことを、心理療法の世界観を自分の人生に深く浸透させた人間なのだと捉えている。
心理療法家は心理療法に癒され続け、心理療法の教える生き方に従う。そうすることで、心理療法と心理療法家共同体を肯定し、未来にわたって保全していく。そこでは、心理療法家のパーソナリティの奥底にまで心理療法の「神話」が染み渡っている。
そう、デイビスは心理療法が抱いている世界観のことを、「神話」と表現している。
例えば、精神分析は「無意識」を理論の基盤に据えているわけだが、それは精神分析の「神話」だと位置づけられる。そこでは、心理療法の世界観はある種のナラティブとして受け取られている。
訓練機関は訓練生に神話を埋め込む。深く、硬く、確からしく。
そのために、訓練機関は様々な仕掛け・装置を用いている。
デイビスはフランスの社会学者ブルデューの「ディスポジション」や「ハビトゥス」という概念を下敷きにしながら、そのような教育装置を次々と露わにしていく。
「パーソンフッド」「系譜的構造」「心理療法的想像力」「疑惑のマネジメント」「精神分析的病因論」などがそれに当たる。
詳細は該当部分をお読みいただきたいが、本書の面白さはそれらの教育装置によって変容し、心理療法家へとかたどられていく訓練生たちの生身の声が至るところで響いていることだ。
しかも、デイビスが描いているのはロンドンの訓練生たちであるはずなのに、それは日本で私たちが体験していることと全く同じことであるから、面白い。
初めてのケースでクライエントが来なかったときの極度の不安。
指導者から自分がどのように評価されているのかにまつわる困惑。
心理学用語を仲間内のプライベートな場面でも使っているときの楽しさ。
家では親であり、職場では責任ある役割を担っていても、研修会にいくと突然子供に戻ってしまったような気持ちがする戸惑い。
自分と違う学派を批判するときに生じる有能感。
自分が人格的に心理療法家に適していないのではないかという自責感。
心理療法家にかたどられようとするときの窮屈さ、不安や不満、みじめさ。そして満足や喜びをデイビスは丹念に記述する。
それはロンドンの訓練生と日本の大学院生に共通する、心理療法家になろうとする人々が抱える普遍的な葛藤だ(日本では訓練前にセラピーを受けることが義務付けられてはいないのが大きな違いだが、それでも同じような葛藤を抱くあたりが面白いところだ)。
繰り返すが、本書はそれらの葛藤を心理学的に解釈したりはしない。つまり、それらを訓練生のパーソナリティの問題として心理学的次元に還元したりしない。
そうではなく、それらを訓練機関や心理療法家共同体がもたらす社会的相互作用の帰結として捉える。そのようにして、心理療法の神話を内面化した主体が立ち上げられると理解する。ここが本書の真骨頂であり、同時に読者に困惑を引き起こすところだと思われる。
私自身もそうだ。例えば、「疑惑のマネジメント」を論じている5章を思い出してほしい。そこに出てくるジョンやマーガレット、ヤングといった心理療法家共同体に反抗する人たちのことを、私もまたナルシシスティックだったり、被害的だったり、エディプス葛藤が未解決だったりと一読して感じた。
心理療法に対する反抗が生じたときに、私たちはつい個人のパーソナリティの方に着目して、心理学的に理解しようとしてしまう。私もまた、そういう心理療法の神話の中で生きているということだ(当然なのだが)。
デイビスはこの点を注意深く語っている。すなわち、取り上げられた事例は、他の分析家、他の訓練機関だったなら、当然違った対応がありえた。
注目すべきは、個々の対応の問題ではなく、心理療法家共同体が反逆者と直面したときに使用するロジックが、いつも同じ形をしているということだ。
キリスト教会が反逆者を「悪魔が憑いている」という霊的論理でとらえて処理していくように、心理療法は反逆者を心理学理論の範囲で理解し、マネージする。神話への疑惑は神話の論理によって処理されるのである。そのようにすることで、心理療法家共同体とその神話は守られる。心理療法家は再び神話を生きることができる。
本書は主に精神分析を扱っているが、認知行動療法家やブリーフセラピストにあっても神話を生きていることについては同様だと思われる。
実際、認知行動療法家の集まりには認知行動療法のエートスがあり、ブリーフセラピストの集まりにはブリーフセラピーの民族性のようなものが確かにある。認知行動療法の神話、ブリーフセラピーの神話があって、それが彼らのパーソナリティに浸透している。実際、インフォーマルな場で話をすると、彼らが自分自身の問題に対して、認知行動療法やブリーフセラピーによって対処しているのがわかる。
この点が、「心理療法家になる」ことの特異性だ。それは物理学者になったり、起業家になったりすることとは違う。
彼らも彼らで独自の神話を生きているのだけど、心理療法家は扱う対象が「心」であり「パーソナリティ」であることによって、その神話を自身の「心」と「パーソナリティ」の根底の部分にまで浸透させなくてはならないのである。
まとめよう。人類学者に見られると、心理療法が神話の営みであり、心理療法家がその司祭であるように見えてくる。
そして、神話はそれが生きられているときには「現実」を提供してくれるが、「神話である」と指摘されると途端にただの「おはなし」になってしまう。
これこそがポストモダンだ。大きな物語が解体して、小さな物語が満ち溢れる。神話は複数のおはなしの一つにしか過ぎなくなる。それは不確実さをもたらす。だからこそ、心理療法は人類学者に見られることを拒んできたのである。
(続く)
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