2018年5月18日金曜日

神話とおはなしと公認心理師と市場―心理療法家の人類学 あとがき その④


「心理療法の人類学」あとがき掲載シリーズですが、ほぼこれで終わりです。

実は最後にひとつエピソードを書いているのですが、それはよろしければ書物を手に取ってお読みいただければ!

本書の内容については以下のセミナーで広く論じようと思っています。

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本書の意義

皮肉な話ではある。デイビスが最後に指摘しているように、心理療法がこれだけ栄えたのもまたポストモダニズムを背景としているからだ。

生きられている神話が複数のおはなしのうちの一つでしかないと見抜かれるとき、私たちは不安になる。だから、確かな価値や指針を失った私たちは個人的に価値を再構築しようとする。そこに心理療法が求められる。河合隼雄が語っていた通りだ。

しかし、本書は当の心理療法が神話であることを見抜こうとする。ポストモダニズムによって育まれた心理療法を、ポストモダニズムによって不確実にしようとするのである。

本書が行ったのはそういう作業だ。訓練機関はおはなしを神話にまで高める。そのことがクライエントを癒す。それだけではない。心理療法家もその神話に癒され続ける。自己というものが形あるものに縫い合わされるからだ。

しかし、その縫い糸を本書はほどく。

「そんなことして何になる」と言われてしまうかもしれない。そして、それこそ「未解決な葛藤の産物だ」と疑惑のマネジメントの対象になってしまうかもしれない(私自身が自分にそう問いかけているほどに、私もまた心理療法の人間なのだ)

しかし、私は意義があると思う。とても大事なことだと思っている。心理療法家は今、不確実性の危険を冒してでも、人類学者のまなざしにさらされなくてはならない。外からの視線にさらされ、そしてデイビスの言葉を用いるならば「自己肯定的」ではなく、「自己省察的」にならなくてはならない。なぜなら、心理療法家は既に外からの視線に晒されているからだ。


公認心理師のことを念頭に置いている。加えて、日常の隅々にまで浸透する市場原理のことを念頭に置いている。

「心理療法とは何か?」「心理療法家とは何者か?」。国家が、市場が、国民が、消費者が、私たちにそう問いかけている。外側から問いかけている。しかし、公認心理師をめぐる様々なプロセスによって露わになったように、私たちはその問いに対して十分に答えきれていない。

これまで私たちは専門家集団の中で流通する自己規定としての「心理療法とは何か」の答えは練り上げてきたが、外側に対する答えを練り上げてはこなかった。1990年代に下山晴彦が提起した臨床心理学のアカウンタビリティという問いは十分に取り組まれてこなかったのだ。今求められているのは、心理療法家に対する答えではなく、ユーザーに向けられた答えだ。

だからこそ、本書には価値がある。本書は心理療法を外側から見る。心理療法の神話がいかなるものであるのかを示す。そのようにして得られた自己省察性は、同じように精神医療の神話を見抜くし、エビデンス神話を見抜くし、当事者運動の神話を見抜く。

複数の神話がうごめく現代の多元性を直視する。私たちは今、そのような多元的現実を前提にした世界を生きているのだから、そこで流通しうる強靭なおはなしを手にしなくてはならない。

だから、心理療法は人類学のまなざしを受けることで、解体するのではなく、より深く彫琢されるはずだ、と私は思う。私たちのおはなしは、良きおはなしだからだ。それは確かに人々によきものをもたらすものだと私は思う(だから、この仕事をしている)。そのおはなしは外からのまなざしによって鍛えられ、より深みを増すと思うのだ。

2018年5月12日土曜日

心理療法の神話―心理療法家の人類学 あとがき その③



「心理療法家の人類学」のあとがき紹介の続きです。

私たちが心理療法の訓練を受ける中で感じる、戸惑いや苦痛、あるいは喜びについて、それがなぜなのかをDaviesは見事に描いています。

イギリスの訓練生と日本の大学院生が同じ体験をしているということは、大変面白いことだと思うのです。



                 本書の内容

内容に入っていく前に、本書が「心理療法の人類学」という分野の絶好の入門書でもあることは言っておきたい。
「なぜ心理療法は癒すのか」「心理療法の理論とは一体何か」「なぜ心理療法の学派は分裂を繰り返すのか」「心理療法はいかなる社会的状況のもとで発展したのか」。

そういった問いに対して、これまで人類学者や社会学者が様々な見解を提出してきたが、本書はその充実したレビューになっている。

 本書を一読して、翻訳することを決意したのは、心理療法についての人類学的な議論が整理されており、今後「心理療法の人類学」を学びたい読者にとって、文献案内も含めて絶好の入り口になると考えたからである。

このことをまず押さえておきたい。そのうえで、中身に入っていこう。



「心理療法家になるとはどういうことか?」これが本書の問いだ。それは凡庸な問いではある。実際、「心理療法家になること」について書かれた本を、私たちは山ほどもっている。

いかなる理論を学び、いかなる技法を身につければ心理療法家になれるのか。あるいは、いかなる訓練を受ければ心理療法家になれるのか。良き心理療法家とはいかなるもので、悪しき心理療法家とはいかなるものであるのか。

そういったことが書き連ねられた教科書を私たちのコミュニティはすでに多すぎるほど所有している。ただし、そこで描かれているのは、あくまで心理療法家についての心理学的な次元での理解だ。

たとえば、「なぜ心理療法家になるために、自分自身が心理療法を受けなくてはならないのか?」この問いに対して、逆転移を利用できるようになるために、自らの無意識的なありようの理解を深めておく必要がある、などと心理学的な語彙によって心理学的な文脈での説明がなされる(この点はいろいろな説があるが、ここでは触れない)。

しかし、本書は違う。本書は「心理療法家になること」を社会の側から説明する。心理療法家の内側にうごめく心の力動ではなく、心理療法家を取り囲む社会の力動を解き明かそうとするのである。

だから、本書が注目するのは訓練機関だ。訓練機関はいかにして心理療法家を作り出すのか?そのとき、訓練生に対していかなる介入や、いかなる操作が行われているのか?その結果、訓練生はいかなる変容を遂げるのか?そして、訓練機関がそのように振る舞うのにはいかなる社会的合理性があるのか?そのようなことが本書では問われている。

「なぜ心理療法家になるために、自分自身が心理療法を受けなくてはならないのか?」この問いに対するデイビスの答えは、「そのようにして訓練生は心理療法的想像力を内面化するから」であり、「心理療法を受けてよい体験だった人のみが、その学派の心理療法家になっていくという一種の審査になるから」というものである。


デイビスは、心理療法家のことを、心理療法の世界観を自分の人生に深く浸透させた人間なのだと捉えている。

心理療法家は心理療法に癒され続け、心理療法の教える生き方に従う。そうすることで、心理療法と心理療法家共同体を肯定し、未来にわたって保全していく。そこでは、心理療法家のパーソナリティの奥底にまで心理療法の「神話」が染み渡っている。

そう、デイビスは心理療法が抱いている世界観のことを、「神話」と表現している。

例えば、精神分析は「無意識」を理論の基盤に据えているわけだが、それは精神分析の「神話」だと位置づけられる。そこでは、心理療法の世界観はある種のナラティブとして受け取られている。

訓練機関は訓練生に神話を埋め込む。深く、硬く、確からしく。


そのために、訓練機関は様々な仕掛け・装置を用いている。

デイビスはフランスの社会学者ブルデューの「ディスポジション」や「ハビトゥス」という概念を下敷きにしながら、そのような教育装置を次々と露わにしていく。

「パーソンフッド」「系譜的構造」「心理療法的想像力」「疑惑のマネジメント」「精神分析的病因論」などがそれに当たる。

詳細は該当部分をお読みいただきたいが、本書の面白さはそれらの教育装置によって変容し、心理療法家へとかたどられていく訓練生たちの生身の声が至るところで響いていることだ。

しかも、デイビスが描いているのはロンドンの訓練生たちであるはずなのに、それは日本で私たちが体験していることと全く同じことであるから、面白い。

初めてのケースでクライエントが来なかったときの極度の不安。
指導者から自分がどのように評価されているのかにまつわる困惑。
心理学用語を仲間内のプライベートな場面でも使っているときの楽しさ。
家では親であり、職場では責任ある役割を担っていても、研修会にいくと突然子供に戻ってしまったような気持ちがする戸惑い。
自分と違う学派を批判するときに生じる有能感。
自分が人格的に心理療法家に適していないのではないかという自責感。

心理療法家にかたどられようとするときの窮屈さ、不安や不満、みじめさ。そして満足や喜びをデイビスは丹念に記述する。

それはロンドンの訓練生と日本の大学院生に共通する、心理療法家になろうとする人々が抱える普遍的な葛藤だ(日本では訓練前にセラピーを受けることが義務付けられてはいないのが大きな違いだが、それでも同じような葛藤を抱くあたりが面白いところだ)


繰り返すが、本書はそれらの葛藤を心理学的に解釈したりはしない。つまり、それらを訓練生のパーソナリティの問題として心理学的次元に還元したりしない。

そうではなく、それらを訓練機関や心理療法家共同体がもたらす社会的相互作用の帰結として捉える。そのようにして、心理療法の神話を内面化した主体が立ち上げられると理解する。ここが本書の真骨頂であり、同時に読者に困惑を引き起こすところだと思われる。

私自身もそうだ。例えば、「疑惑のマネジメント」を論じている5章を思い出してほしい。そこに出てくるジョンやマーガレット、ヤングといった心理療法家共同体に反抗する人たちのことを、私もまたナルシシスティックだったり、被害的だったり、エディプス葛藤が未解決だったりと一読して感じた。

心理療法に対する反抗が生じたときに、私たちはつい個人のパーソナリティの方に着目して、心理学的に理解しようとしてしまう。私もまた、そういう心理療法の神話の中で生きているということだ(当然なのだが)

デイビスはこの点を注意深く語っている。すなわち、取り上げられた事例は、他の分析家、他の訓練機関だったなら、当然違った対応がありえた。

注目すべきは、個々の対応の問題ではなく、心理療法家共同体が反逆者と直面したときに使用するロジックが、いつも同じ形をしているということだ。

キリスト教会が反逆者を「悪魔が憑いている」という霊的論理でとらえて処理していくように、心理療法は反逆者を心理学理論の範囲で理解し、マネージする。神話への疑惑は神話の論理によって処理されるのである。そのようにすることで、心理療法家共同体とその神話は守られる。心理療法家は再び神話を生きることができる。


本書は主に精神分析を扱っているが、認知行動療法家やブリーフセラピストにあっても神話を生きていることについては同様だと思われる。

実際、認知行動療法家の集まりには認知行動療法のエートスがあり、ブリーフセラピストの集まりにはブリーフセラピーの民族性のようなものが確かにある。認知行動療法の神話、ブリーフセラピーの神話があって、それが彼らのパーソナリティに浸透している。実際、インフォーマルな場で話をすると、彼らが自分自身の問題に対して、認知行動療法やブリーフセラピーによって対処しているのがわかる。

この点が、「心理療法家になる」ことの特異性だ。それは物理学者になったり、起業家になったりすることとは違う。

彼らも彼らで独自の神話を生きているのだけど、心理療法家は扱う対象が「心」であり「パーソナリティ」であることによって、その神話を自身の「心」と「パーソナリティ」の根底の部分にまで浸透させなくてはならないのである。


まとめよう。人類学者に見られると、心理療法が神話の営みであり、心理療法家がその司祭であるように見えてくる。

そして、神話はそれが生きられているときには「現実」を提供してくれるが、「神話である」と指摘されると途端にただの「おはなし」になってしまう。

これこそがポストモダンだ。大きな物語が解体して、小さな物語が満ち溢れる。神話は複数のおはなしの一つにしか過ぎなくなる。それは不確実さをもたらす。だからこそ、心理療法は人類学者に見られることを拒んできたのである。


                            (続く)

2018年5月8日火曜日

元バレーダンサーにして人類学者、そして心理療法家ー 心理療法家の人類学 あとがき その②

心理療法家の人類学のあとがき、今回は著者紹介です。

かなり変わった経歴ですが、ご覧下さい。

あ、Amazonでようやく取り扱いが始まりました。
厚い本なので高めになっていますが、今度の「心理療法の人類学」入門セミナーで2割引き3000円台で買えるのです(宣伝でした)!


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                著者について

本書の著者ジェームス・デイビスは、1973年にイギリス北部のサウスポートで生まれた。ホームページ(https://jamesdaviesauthor.com/)を見るとわかるように、彼はとてもハンサムだ。

それもそのはず、デイビスはもともとプロのバレーダンサーだった。10歳の頃からバレースクールに通い始め、17歳の時には若手ダンサーの賞に輝いた。

その後、ニューヨークにてバレーの専門教育を受け、18歳でロンドンの国立劇場の舞台に上がるようになった。プロダンサーとしては輝かしいキャリアと言っていいだろう。

しかし、20代前半にデイビスは挫折する。いくつかの「人生の問題」が重なり、デイビスは情緒的に難しくなり、精神的危機に陥る。

悩み苦しむその最中に、心理療法と最初の出会いを果たす。傷ついた自分と向き合うために、精神分析、ユング派、そして人間性心理学の文献を読み漁るようになり、そして実際にセラピーを受け始める。

その帰結が、バレーダンサーとしてのキャリアの断念であった。

デイビスはバレーから離れた。そして、その代わりにロンドン大学の東洋アフリカ研究学院で人類学を学び始めることになった。

人類学者としての再出発をすることになったのだ。そのときに出会ったのが、ポストモダニズムの思想であり、それがデイビスのその後の仕事の基盤となった。


その後、デイビスは順調に人類学者としてのキャリアを歩んでいく。

本書の基になった論文でオックスフォード大学より博士号を授与され、処女作である本書を皮切りに、立て続けにThe Importance of Suffering: The Value and Meaning of Emotional Discontent (London: Routledge)2012年」を発表する。

そして、2013年に発表した「Cracked: Why Psychiatry is Doing More Harm Than Good (London: Icon Books)」はベストセラーとなって、広く読まれるに至っている (とても挑戦的なタイトルである)

そのほかにも、アーサー・クラインマンやタニヤ・ラーマン、ヴィンセント・クランパザーノといったスター人類学者を寄稿者に迎えた「Emotions in the Field: The Psychology and Anthropology of Fieldwork Experience (Palo Alto: Stanford University Press)2010年」の編著者も勤めるなど、デイビスは将来を担う気鋭の人類学者であり、現在はローハンプトン大学で準教授の地位にある。

しかし、それだけではない。彼にはもう一つの顔がある。そう、彼は心理療法家でもある。


本書で再三強調されていたのは、心理療法に癒された者が、心理療法家の道を志すということであった。

デイビスもまた例外ではない。青年期危機を心理療法によって切り抜けた彼は、人類学の修士号を得た頃から、Westminster Pastoral Foundationにて心理療法家のトレーニングを受け始める。

その後もRegents collegeMetanoia Instituteという統合的心理療法の訓練機関でトレーニングを続け、心理療法家の資格を得ている。

現在はNHSで臨床をしながら、エビデンスベイスト精神医学協会の創設に関わるなど、心理療法界のインサイダーとして活動を続けている。

デイビスは心理療法と人類学の二つに癒された。

だから、彼は人類学者であり、心理療法家でもある。しかし、当然のことではあるが、そのような二重のアイデンティティは葛藤をもたらす。

しかも、人類学者であり心理療法家でもあることは、歯医者でありながらミュージシャンであることとはちょっと違う。あるいは、お笑い芸人でありながら、映画監督であることともちょっと違う(そういえば、精神科医でありながら、ミュージシャンである偉大な先達もいる)

それらはそれらで、二足の草鞋を履くことの葛藤があり、自身のアイデンティティや時間とエネルギーのやりくりについて思い悩むに違いないけど、最終的に「どっちも」であることが可能だ。歯医者をすることによって、音楽を傷つけることはないからだ。

だけど、人類学者であることと心理療法家であることは違う。

それは左手がやっていることを右手で否定するようなものだ。

なぜなら、左手が「本質」に基づいて仕事をしているのに、右手は「文脈」を問うてやまないからだ。

そこには葛藤がある。だから、デイビスは「心理療法家の人類学」を書くことになった。そしてそれが可能だった。彼は心理療法家でもあったからだ。


そう、デイビスは右手を左手にぶつけてみた。手と手を合わせると、どんな音が鳴ったのか?

                               続く 

2018年5月7日月曜日

「アザンデ人の妖術師を見るように、現代の心理療法家を見る」―心理療法家の人類学 あとがき その①


 誠信書房より、翻訳書「心理療法家の人類学―こころの専門家はいかにして作られるか」が発売されます。2年以上かけて仲間と一緒に翻訳を行ったものです。

 詳しい本書の情報は以下の通り。

 また本書出版を記念したセミナーは以下の通り。

 とにかくこの本、英語の下手な私が一気読みしてしまうほど面白い本なのですが、心理療法を対象とした本格的な人類学の本は大変珍しいと思いますので、何回かに分けて私の書いたあとがきを掲載して、内容を周知したいと思います。


アンソロポロジー・オブ・XXX―監訳者あとがき

 本書はJames Daviesの「The Making of Psychotherapists - an Anthropological AnalysisKarnac 2009の全訳である。

 まるでアザンデ人の妖術師を見るように、現代の心理療法家を見る。

妖術によって人が死んだり癒されたりすることを、妖術師たちは霊が実在していて、それが働きかけているからだと説明する。だけど、人類学者は違う。人類学者はアザンデの言語体系、親族組織、死者儀礼などを精緻に調べ上げ、それらの社会的相互作用によって、妖術が機能していることを示す。本書において、デイビスは同じことを心理療法家に対して行う。

心理療法と人類学。この二つの相性は悪くない。フロイトの「トーテムとタブー」やユングの自伝を挙げるまでもなく、心理療法家はこれまでも人類学から多くの知を汲み出してきたし、逆に「文化とパーソナリティ」学派がそうであったように、人類学もまた心理療法から多くを得てきた。少なくともマクロ経済学に比べれば、人類学と心理療法は多くのものを共有していると言っていい。

しかし一方で、心理療法は本質的な部分で人類学を拒んできた。とりわけ、人類学者から「見られる」ことを拒んできた。いや、ときには見られることもあった。同じ社会を生きているから、顔を合わせることはある。ただし、レヴィ=ストロースの精神分析論がそうであったように、そのとき心理療法はよそ行きの服を着ていて、待ち合わせはホテルのラウンジであった。

それは人類学者に本当に「見られた」ことを意味していない。人類学者が誰かを見るとき、その誰かは普段着だったり、寝間着だったりする。ホテルのラウンジで1時間ほど話をするのではなく、相手のコミュニティに年単位で住まい、その日常に身を浸す。そうすることで、他なるものを包括的に理解しようとする。

心理療法が拒んだのは、これだ。そう、心理療法は自らのコミュニティに人類学者を迎え入れ、そこに住まわせ、細部まで見られることを拒んできた。包括的なエスノグラフィーの対象となることを拒んできたのだ(その詳細はイントロダクションで記述されている)

なぜなのか?なぜ心理療法は人類学者に見られることを拒んできたのか?そのようにして見られることによって何が起きてしまうのか?



この問いの答えは、実は本書をここまで読んできた読者の心のうちにあるはずだ(胸がざわつきはしなかっただろうか?)。そこにこそ、人類学のまなざしのもとで心理療法が何であるかが存在するわけだが、ここではしばし置いておきたい。その前に、そのような稀有な(ある意味で禁じられた)試みを可能にした本書の著者デイビスについて紹介しておこう。

なぜ彼は心理療法家の世界を人類学することができたのだろうか?
                              
                             (続く)
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ふしぎの国のデイケア その5

雑誌「精神看護」に「ふしぎの国のデイケア その5 治療者と患者―デイケアは笑う」が掲載されました。

癒すことで癒される。ケアすることでケアされる。そして、ケアされることがケアすることであるという「傷ついた治療者」について、デイケアに基づいて書いています。

よろしければご覧ください。