角幡唯介さんの「極夜行」を読んで、Twitterに以下のように感想をつぶやきました。
「角幡唯介「極夜行」もの凄い。北極の太陽が上らない極夜を旅した本なのだけど、地理を探検するのではなく、心の中を探検しているという究極の心理主義が展開されてます。暗闇の中何度も探検の意味を語り直そうとした挙句、意味が繋がってく終盤は心理療法そのものです。心理士はこれは必読ではないか。」
「しかも、この本の読後感として、「人生の意味ってなんて人工的なものなんだろう」って思わされるんですね。僕は心理療法のことをとても考えましたが、読む人によってそれぞれ全く違う文脈で連想が膨らむ一作と思います。角幡唯介氏がご自身で最高傑作と書いてるけど、全く納得いきます。」
僕は面白かった本をTwitterで呟くと大体一区切りついて(ちなみに、あまり楽しめなかった本はつぶやかないようにしています)、関心は次の本に向かいます。
だけど、「極夜行」については、どうにも収まりがつかず、次の日になっても、つい「極夜行」のことを考えてしまうので、Blogで少し思ったことを書いてみようと思います。
Twitterのような文脈をぶった切るメディアでは上手く伝わりにくい類のことだと思うので。
ちなみに、僕の場合、何を読んでいても、結局心理療法のことを考えてしまうので(ライフワークってそういうものです)、話は心理療法と重なっていってしまうのだけど、それでもよければお付き合いください。
「極夜行」内容紹介
さて、内容ですが、Google books曰く、以下の通りです。
「ひとり極夜を旅して、四ヵ月ぶりに太陽を見た。まったく、すべてが想定外だった―。太陽が昇らない冬の北極を、一頭の犬とともに命懸けで体感した探検家の記録。」
まったくこの通りです。
登場人物は著者と犬だけなので、ひたすら独白が続くのですが、飽きることなく夢中で読める本です。
著者は暗闇を体験し、月を体験し、星を体験します。
そして、自分の体験から、「暗闇とは何か」「月とは何か」「星とは何か」「光とは何か」を語っていきます。
たとえば、次のような感じ(Kindleのハイライト機能はこういうとき便利だ)。
「このように光があると人間の存立基盤は空間領域において安定し、同時に時間領域においても安定し、心安らかに落ち着くことができる。光は人間に未来を見通す力と心の平安を与えるのである。それを人は希望という。つまり光とは未来であり、希望だ。」
「闇は人間から未来を奪うのである。闇に死の恐怖がつきまとうのは、この未来の感覚が喪失してしまうからではないだろうか。闇は人間の歴史のなかで常に冥界や死と関連付けられてきたが、その恐怖の本質は闇そのものにあるのではなく、自己の内部で漠然と構築されていた生存予測が闇によって消滅させられてしまうことにあるのだ。」
このようにそこから得られる考察は大変示唆的です。
僕が生業としている心理療法にとっても重要なことが、深い説得力を持って描かれているように感じます。
その意味で、まぎれもなく、本書は名著です。大変な名著です。
だけど、ただの名著ではないです。
僕が引っ掛かり続けているのは、終盤です。
ありふれた、陳腐な洞察
長い旅の果てに、著者はある心理学的洞察に至ります。それはこの過酷な旅がご本人にとって、一体いかなる意味があったのか、一筋の縦糸を通すような洞察です。
問題はここです。
これは完全に僕個人の受け取り方なのですが、その洞察がとても「ありふれた」ものだと思うのです
場合によっては、陳腐と言ってもいいかもしれない(あくまで、僕はそう感じたということです。もちろん違う感じ方はあります)。
そこにひっかかるのです。
もちろん、そのことは旅の価値を貶めるものでもないし、この本は間違いなく名著です。
だから謎です。
過酷にして、貴重な旅をして、そのプロセスをクールに、ときにユーモラスに描くような上質の考察を続けて、どうしてこんな「ありふれた」結論に至ってしまうんだ!?
そのことにひっかかり続けていたわけです。
しかし、徐々に、ここにこそ、この本の凄みがあるのではないか、と思うようになりました。
そのことを以下に書いてみたい。
自己を探検する
著者は現代社会には地理的な空白地域はなく、探検は不可能だ、と考えています。
つまり、地図の外にはもう出れない。そういう中で、探検をしないといけない。どうすればいいか?
その問いの答えが、この本では極夜でした。
つまり、極夜を「本当」に体験するというのは、システムの外側に出る探検的行為なのだと考えるわけです。
実はここでは探検の領域は、体験に置かれています。
その探検はもはや、世界ではなく、自己に向けられているのです。
だから、著者は繰り返し繰り返し、この旅の意義について、自問自答を続けます。
それはまさにギデンズという社会学者が「再帰性」という言葉で語ったことです。
自己を振り返り、省察し、自己の営みを意味付け、そうすることで自己を確認しながら、著者は旅を進めていきます。
それはきわめて、心理学的態度です。心理療法的態度です。
ハーバーマスが精神分析を自己反省の営みとしたように、著者は北極圏の極夜という、人間世界の外部に出ようとして、きわめて近代的で、人間的な営みを続けるのです。
その果てに「ありふれた」洞察があります。
ありふれた洞察が、旅全体を意味付け、意義を持たせ、著者の心にまとまりをもたせます。
なぜこれほどの旅で、こんなに陳腐な洞察なのか?
もしかして、この袋小路は僕らの生き方そのものなのではないか?
極夜を起動する
現代を生きる僕らには地図の外側が存在しません(共産主義の崩壊以降、資本主義の外部はもう存在しない)。
でも、資本主義は常に外部を、フロンティアを求めるから、僕らは存在しない外部を探し続けます。
そこに、物語が必要とされます。
物語は外部のない世界に外部を作り出します。
「ハリーポッター」とは、イケてないどん詰まりの生活を送るハリー少年に、魔法の世界という外部をもたらす物語です。
物語によって、僕らはあっという間に日常世界の外部に連れ出されます。
それがよく現れるのは危機の時です。
ある日突然、大切な人に裏切られる。ある日突然、大切なものが失われる。
それは危機です。
危機だからこそ、僕らは物語を始めます。
僕らの人生はそのとき物語のとば口に立たたされて、そこから旅を繰り広げることになります。
そうじゃないと、僕らはその危機に持ちこたえられません。不可解なものほど恐ろしいものはないからです。
そして、物語によって僕らはその危機を心に収め(本当に大変なのだけど)、そして「人生の意味」という洞察を経て、まとまりを獲得します。
そして、それは人生の危機に限りません。
僕らは常に自己を物語り化せざるを得なくなっている。
僕らは自己省察から逃れられない。
僕らは自分の人生を絶えず、意味づけようとします、物語化しようとします。
外部を持たない僕らは、人生に耐えるために、筋の通った物語を必要とするのです。
それが、まさに極夜の探検家のなしたことです。
とすると、心理療法家とは、もしかしたら、北極圏に行かずして極夜を起動する仕事と言えるのかもしれない。
ありふれた洞察
ともかく、そうして最後に「ありふれた」洞察がやってきます。
それは言葉にしてしまうと、陳腐で、つまらないものかもしれない。
だけど、それは旅を通じて勝ち得た物語です。洞察です。
それは血肉化し、確かな縫い糸となるような何物かなのです。
そして、付け加えるならば、それは「ありふれた」ものだからこそ、価値があるものなのかもしれない。
「ありふれた」、陳腐なものだからこそ、僕らは日々の生活に帰着できるのかもしれない。
「ありふれた」ものを本気で生きることこそが、外部のない世界を生きる僕らが切実に必要としているものなのではないか?
こういう問いが、この文章を書かせています。
「極夜行」は僕に訴えかけます。
一体、人生の物語とは何なのか、洞察とは何なのか?
僕らが生きるとはどういうことなのか?
生きていることを振り返りながら生きるとはどういうことなのか?
そして、ありふれていること、陳腐であることとは、いったい何なんだ?
そういう問いがあって、長々と書いてきましたが、
未だ「極夜行」を消化できずにいます。
そういう意味で、この本は紛れもない名著です。
もしかしたら、それが一番言いたかったのかもしれない。
もしよければ、読んでみてください。