2018年12月8日土曜日

2018年11月13日火曜日

生き延びるための美学 2回目

晶文社のサイト「スクラップブック」で連載している
「生き延びるための美学」の2回目が掲載されています。

よろしければご覧ください。

http://s-scrap.com/2799

2018年11月8日木曜日

「ケアは難しい」 朝日カルチャーセンター新宿教室 


12月6日に朝日カルチャーセンター新宿教室で、
「ケアは難しい―そしてケアする人をケアすること」という講座を行います。

私たちは日々ケアをして生きている。夫や妻をケアし、子どもをケアし、親をケアし、ときには部下や上司、同僚のケアまでする。そしてまた、そういう人たちから私たちはケアされて生きている。ケアは私たちの人生の多くの時間を注ぎ込む基本的な営みだ。
 だけど、それは難しい。ケアしようと思っているのに傷つけてしまう。あるいは追い払われてしまう。私はカウンセリングを通じて、そういうケアすることの難しさについて考えてきた。そのとき、ケアする人がケアされることの重要性が浮かびあがる。そういう話をしてみたい。


https://www.asahiculture.jp/shinjuku/course/2487c2d7-7a89-0789-5c03-5b57eb4cc3cd

2018年10月2日火曜日

「きょうのユング、あしたのユング」 開催

先日開催した「心理療法の人類学」セミナーが好評だったので、「あしたの心理療法セミナー」としてシリーズとすることにしました。
第2弾は来年1月20日東京で、ユング派の若き資格候補生であり、チューリッヒに留学中の大塚紳一郎さんをお迎えして、「きょうのユング、あしたのユング―ユング心理学再入門」を開催します。
現代にあってユングはどのようにアクチュアルであるのか、そういう視座から、もう一度ユングに再入門してみようという意図です。大塚さんはユングの原著を翻訳することで、現代的なユングを語ろうとしている人なので、その人ともに現代に生きるユング心理学を考えてみる予定です。

昔ユングに出会った人も、まだユングと出会ったことのない人も、ぜひご参加いただければと思います。ユングの魅惑的な世界は、現代の万人に開かれていると言うのが、今回のコンセプトですので。

2018年9月5日水曜日

書評「ヘルマン医療人類学」

金剛出版の雑誌「臨床心理学」の最新刊18巻5号に
「ヘルマン医療人類学」の書評を書いたものが掲載されています。
文化と臨床の繋がりを語る本で、それについて紹介を行いました。

2018年7月2日月曜日

ふしぎの国のデイケア最終回

雑誌「精神看護」に「ふしぎの国のデイケア その6 人と構造―デイケアの辞め方」が掲載されました。

人と人とが別れていくことについて書いています。

これが連載の最終回です。これまでの分をまとめて、本になる予定をしています。いつの日になるかわからないけれども。

2018年5月18日金曜日

神話とおはなしと公認心理師と市場―心理療法家の人類学 あとがき その④


「心理療法の人類学」あとがき掲載シリーズですが、ほぼこれで終わりです。

実は最後にひとつエピソードを書いているのですが、それはよろしければ書物を手に取ってお読みいただければ!

本書の内容については以下のセミナーで広く論じようと思っています。

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本書の意義

皮肉な話ではある。デイビスが最後に指摘しているように、心理療法がこれだけ栄えたのもまたポストモダニズムを背景としているからだ。

生きられている神話が複数のおはなしのうちの一つでしかないと見抜かれるとき、私たちは不安になる。だから、確かな価値や指針を失った私たちは個人的に価値を再構築しようとする。そこに心理療法が求められる。河合隼雄が語っていた通りだ。

しかし、本書は当の心理療法が神話であることを見抜こうとする。ポストモダニズムによって育まれた心理療法を、ポストモダニズムによって不確実にしようとするのである。

本書が行ったのはそういう作業だ。訓練機関はおはなしを神話にまで高める。そのことがクライエントを癒す。それだけではない。心理療法家もその神話に癒され続ける。自己というものが形あるものに縫い合わされるからだ。

しかし、その縫い糸を本書はほどく。

「そんなことして何になる」と言われてしまうかもしれない。そして、それこそ「未解決な葛藤の産物だ」と疑惑のマネジメントの対象になってしまうかもしれない(私自身が自分にそう問いかけているほどに、私もまた心理療法の人間なのだ)

しかし、私は意義があると思う。とても大事なことだと思っている。心理療法家は今、不確実性の危険を冒してでも、人類学者のまなざしにさらされなくてはならない。外からの視線にさらされ、そしてデイビスの言葉を用いるならば「自己肯定的」ではなく、「自己省察的」にならなくてはならない。なぜなら、心理療法家は既に外からの視線に晒されているからだ。


公認心理師のことを念頭に置いている。加えて、日常の隅々にまで浸透する市場原理のことを念頭に置いている。

「心理療法とは何か?」「心理療法家とは何者か?」。国家が、市場が、国民が、消費者が、私たちにそう問いかけている。外側から問いかけている。しかし、公認心理師をめぐる様々なプロセスによって露わになったように、私たちはその問いに対して十分に答えきれていない。

これまで私たちは専門家集団の中で流通する自己規定としての「心理療法とは何か」の答えは練り上げてきたが、外側に対する答えを練り上げてはこなかった。1990年代に下山晴彦が提起した臨床心理学のアカウンタビリティという問いは十分に取り組まれてこなかったのだ。今求められているのは、心理療法家に対する答えではなく、ユーザーに向けられた答えだ。

だからこそ、本書には価値がある。本書は心理療法を外側から見る。心理療法の神話がいかなるものであるのかを示す。そのようにして得られた自己省察性は、同じように精神医療の神話を見抜くし、エビデンス神話を見抜くし、当事者運動の神話を見抜く。

複数の神話がうごめく現代の多元性を直視する。私たちは今、そのような多元的現実を前提にした世界を生きているのだから、そこで流通しうる強靭なおはなしを手にしなくてはならない。

だから、心理療法は人類学のまなざしを受けることで、解体するのではなく、より深く彫琢されるはずだ、と私は思う。私たちのおはなしは、良きおはなしだからだ。それは確かに人々によきものをもたらすものだと私は思う(だから、この仕事をしている)。そのおはなしは外からのまなざしによって鍛えられ、より深みを増すと思うのだ。

2018年5月12日土曜日

心理療法の神話―心理療法家の人類学 あとがき その③



「心理療法家の人類学」のあとがき紹介の続きです。

私たちが心理療法の訓練を受ける中で感じる、戸惑いや苦痛、あるいは喜びについて、それがなぜなのかをDaviesは見事に描いています。

イギリスの訓練生と日本の大学院生が同じ体験をしているということは、大変面白いことだと思うのです。



                 本書の内容

内容に入っていく前に、本書が「心理療法の人類学」という分野の絶好の入門書でもあることは言っておきたい。
「なぜ心理療法は癒すのか」「心理療法の理論とは一体何か」「なぜ心理療法の学派は分裂を繰り返すのか」「心理療法はいかなる社会的状況のもとで発展したのか」。

そういった問いに対して、これまで人類学者や社会学者が様々な見解を提出してきたが、本書はその充実したレビューになっている。

 本書を一読して、翻訳することを決意したのは、心理療法についての人類学的な議論が整理されており、今後「心理療法の人類学」を学びたい読者にとって、文献案内も含めて絶好の入り口になると考えたからである。

このことをまず押さえておきたい。そのうえで、中身に入っていこう。



「心理療法家になるとはどういうことか?」これが本書の問いだ。それは凡庸な問いではある。実際、「心理療法家になること」について書かれた本を、私たちは山ほどもっている。

いかなる理論を学び、いかなる技法を身につければ心理療法家になれるのか。あるいは、いかなる訓練を受ければ心理療法家になれるのか。良き心理療法家とはいかなるもので、悪しき心理療法家とはいかなるものであるのか。

そういったことが書き連ねられた教科書を私たちのコミュニティはすでに多すぎるほど所有している。ただし、そこで描かれているのは、あくまで心理療法家についての心理学的な次元での理解だ。

たとえば、「なぜ心理療法家になるために、自分自身が心理療法を受けなくてはならないのか?」この問いに対して、逆転移を利用できるようになるために、自らの無意識的なありようの理解を深めておく必要がある、などと心理学的な語彙によって心理学的な文脈での説明がなされる(この点はいろいろな説があるが、ここでは触れない)。

しかし、本書は違う。本書は「心理療法家になること」を社会の側から説明する。心理療法家の内側にうごめく心の力動ではなく、心理療法家を取り囲む社会の力動を解き明かそうとするのである。

だから、本書が注目するのは訓練機関だ。訓練機関はいかにして心理療法家を作り出すのか?そのとき、訓練生に対していかなる介入や、いかなる操作が行われているのか?その結果、訓練生はいかなる変容を遂げるのか?そして、訓練機関がそのように振る舞うのにはいかなる社会的合理性があるのか?そのようなことが本書では問われている。

「なぜ心理療法家になるために、自分自身が心理療法を受けなくてはならないのか?」この問いに対するデイビスの答えは、「そのようにして訓練生は心理療法的想像力を内面化するから」であり、「心理療法を受けてよい体験だった人のみが、その学派の心理療法家になっていくという一種の審査になるから」というものである。


デイビスは、心理療法家のことを、心理療法の世界観を自分の人生に深く浸透させた人間なのだと捉えている。

心理療法家は心理療法に癒され続け、心理療法の教える生き方に従う。そうすることで、心理療法と心理療法家共同体を肯定し、未来にわたって保全していく。そこでは、心理療法家のパーソナリティの奥底にまで心理療法の「神話」が染み渡っている。

そう、デイビスは心理療法が抱いている世界観のことを、「神話」と表現している。

例えば、精神分析は「無意識」を理論の基盤に据えているわけだが、それは精神分析の「神話」だと位置づけられる。そこでは、心理療法の世界観はある種のナラティブとして受け取られている。

訓練機関は訓練生に神話を埋め込む。深く、硬く、確からしく。


そのために、訓練機関は様々な仕掛け・装置を用いている。

デイビスはフランスの社会学者ブルデューの「ディスポジション」や「ハビトゥス」という概念を下敷きにしながら、そのような教育装置を次々と露わにしていく。

「パーソンフッド」「系譜的構造」「心理療法的想像力」「疑惑のマネジメント」「精神分析的病因論」などがそれに当たる。

詳細は該当部分をお読みいただきたいが、本書の面白さはそれらの教育装置によって変容し、心理療法家へとかたどられていく訓練生たちの生身の声が至るところで響いていることだ。

しかも、デイビスが描いているのはロンドンの訓練生たちであるはずなのに、それは日本で私たちが体験していることと全く同じことであるから、面白い。

初めてのケースでクライエントが来なかったときの極度の不安。
指導者から自分がどのように評価されているのかにまつわる困惑。
心理学用語を仲間内のプライベートな場面でも使っているときの楽しさ。
家では親であり、職場では責任ある役割を担っていても、研修会にいくと突然子供に戻ってしまったような気持ちがする戸惑い。
自分と違う学派を批判するときに生じる有能感。
自分が人格的に心理療法家に適していないのではないかという自責感。

心理療法家にかたどられようとするときの窮屈さ、不安や不満、みじめさ。そして満足や喜びをデイビスは丹念に記述する。

それはロンドンの訓練生と日本の大学院生に共通する、心理療法家になろうとする人々が抱える普遍的な葛藤だ(日本では訓練前にセラピーを受けることが義務付けられてはいないのが大きな違いだが、それでも同じような葛藤を抱くあたりが面白いところだ)


繰り返すが、本書はそれらの葛藤を心理学的に解釈したりはしない。つまり、それらを訓練生のパーソナリティの問題として心理学的次元に還元したりしない。

そうではなく、それらを訓練機関や心理療法家共同体がもたらす社会的相互作用の帰結として捉える。そのようにして、心理療法の神話を内面化した主体が立ち上げられると理解する。ここが本書の真骨頂であり、同時に読者に困惑を引き起こすところだと思われる。

私自身もそうだ。例えば、「疑惑のマネジメント」を論じている5章を思い出してほしい。そこに出てくるジョンやマーガレット、ヤングといった心理療法家共同体に反抗する人たちのことを、私もまたナルシシスティックだったり、被害的だったり、エディプス葛藤が未解決だったりと一読して感じた。

心理療法に対する反抗が生じたときに、私たちはつい個人のパーソナリティの方に着目して、心理学的に理解しようとしてしまう。私もまた、そういう心理療法の神話の中で生きているということだ(当然なのだが)

デイビスはこの点を注意深く語っている。すなわち、取り上げられた事例は、他の分析家、他の訓練機関だったなら、当然違った対応がありえた。

注目すべきは、個々の対応の問題ではなく、心理療法家共同体が反逆者と直面したときに使用するロジックが、いつも同じ形をしているということだ。

キリスト教会が反逆者を「悪魔が憑いている」という霊的論理でとらえて処理していくように、心理療法は反逆者を心理学理論の範囲で理解し、マネージする。神話への疑惑は神話の論理によって処理されるのである。そのようにすることで、心理療法家共同体とその神話は守られる。心理療法家は再び神話を生きることができる。


本書は主に精神分析を扱っているが、認知行動療法家やブリーフセラピストにあっても神話を生きていることについては同様だと思われる。

実際、認知行動療法家の集まりには認知行動療法のエートスがあり、ブリーフセラピストの集まりにはブリーフセラピーの民族性のようなものが確かにある。認知行動療法の神話、ブリーフセラピーの神話があって、それが彼らのパーソナリティに浸透している。実際、インフォーマルな場で話をすると、彼らが自分自身の問題に対して、認知行動療法やブリーフセラピーによって対処しているのがわかる。

この点が、「心理療法家になる」ことの特異性だ。それは物理学者になったり、起業家になったりすることとは違う。

彼らも彼らで独自の神話を生きているのだけど、心理療法家は扱う対象が「心」であり「パーソナリティ」であることによって、その神話を自身の「心」と「パーソナリティ」の根底の部分にまで浸透させなくてはならないのである。


まとめよう。人類学者に見られると、心理療法が神話の営みであり、心理療法家がその司祭であるように見えてくる。

そして、神話はそれが生きられているときには「現実」を提供してくれるが、「神話である」と指摘されると途端にただの「おはなし」になってしまう。

これこそがポストモダンだ。大きな物語が解体して、小さな物語が満ち溢れる。神話は複数のおはなしの一つにしか過ぎなくなる。それは不確実さをもたらす。だからこそ、心理療法は人類学者に見られることを拒んできたのである。


                            (続く)

2018年5月8日火曜日

元バレーダンサーにして人類学者、そして心理療法家ー 心理療法家の人類学 あとがき その②

心理療法家の人類学のあとがき、今回は著者紹介です。

かなり変わった経歴ですが、ご覧下さい。

あ、Amazonでようやく取り扱いが始まりました。
厚い本なので高めになっていますが、今度の「心理療法の人類学」入門セミナーで2割引き3000円台で買えるのです(宣伝でした)!


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                著者について

本書の著者ジェームス・デイビスは、1973年にイギリス北部のサウスポートで生まれた。ホームページ(https://jamesdaviesauthor.com/)を見るとわかるように、彼はとてもハンサムだ。

それもそのはず、デイビスはもともとプロのバレーダンサーだった。10歳の頃からバレースクールに通い始め、17歳の時には若手ダンサーの賞に輝いた。

その後、ニューヨークにてバレーの専門教育を受け、18歳でロンドンの国立劇場の舞台に上がるようになった。プロダンサーとしては輝かしいキャリアと言っていいだろう。

しかし、20代前半にデイビスは挫折する。いくつかの「人生の問題」が重なり、デイビスは情緒的に難しくなり、精神的危機に陥る。

悩み苦しむその最中に、心理療法と最初の出会いを果たす。傷ついた自分と向き合うために、精神分析、ユング派、そして人間性心理学の文献を読み漁るようになり、そして実際にセラピーを受け始める。

その帰結が、バレーダンサーとしてのキャリアの断念であった。

デイビスはバレーから離れた。そして、その代わりにロンドン大学の東洋アフリカ研究学院で人類学を学び始めることになった。

人類学者としての再出発をすることになったのだ。そのときに出会ったのが、ポストモダニズムの思想であり、それがデイビスのその後の仕事の基盤となった。


その後、デイビスは順調に人類学者としてのキャリアを歩んでいく。

本書の基になった論文でオックスフォード大学より博士号を授与され、処女作である本書を皮切りに、立て続けにThe Importance of Suffering: The Value and Meaning of Emotional Discontent (London: Routledge)2012年」を発表する。

そして、2013年に発表した「Cracked: Why Psychiatry is Doing More Harm Than Good (London: Icon Books)」はベストセラーとなって、広く読まれるに至っている (とても挑戦的なタイトルである)

そのほかにも、アーサー・クラインマンやタニヤ・ラーマン、ヴィンセント・クランパザーノといったスター人類学者を寄稿者に迎えた「Emotions in the Field: The Psychology and Anthropology of Fieldwork Experience (Palo Alto: Stanford University Press)2010年」の編著者も勤めるなど、デイビスは将来を担う気鋭の人類学者であり、現在はローハンプトン大学で準教授の地位にある。

しかし、それだけではない。彼にはもう一つの顔がある。そう、彼は心理療法家でもある。


本書で再三強調されていたのは、心理療法に癒された者が、心理療法家の道を志すということであった。

デイビスもまた例外ではない。青年期危機を心理療法によって切り抜けた彼は、人類学の修士号を得た頃から、Westminster Pastoral Foundationにて心理療法家のトレーニングを受け始める。

その後もRegents collegeMetanoia Instituteという統合的心理療法の訓練機関でトレーニングを続け、心理療法家の資格を得ている。

現在はNHSで臨床をしながら、エビデンスベイスト精神医学協会の創設に関わるなど、心理療法界のインサイダーとして活動を続けている。

デイビスは心理療法と人類学の二つに癒された。

だから、彼は人類学者であり、心理療法家でもある。しかし、当然のことではあるが、そのような二重のアイデンティティは葛藤をもたらす。

しかも、人類学者であり心理療法家でもあることは、歯医者でありながらミュージシャンであることとはちょっと違う。あるいは、お笑い芸人でありながら、映画監督であることともちょっと違う(そういえば、精神科医でありながら、ミュージシャンである偉大な先達もいる)

それらはそれらで、二足の草鞋を履くことの葛藤があり、自身のアイデンティティや時間とエネルギーのやりくりについて思い悩むに違いないけど、最終的に「どっちも」であることが可能だ。歯医者をすることによって、音楽を傷つけることはないからだ。

だけど、人類学者であることと心理療法家であることは違う。

それは左手がやっていることを右手で否定するようなものだ。

なぜなら、左手が「本質」に基づいて仕事をしているのに、右手は「文脈」を問うてやまないからだ。

そこには葛藤がある。だから、デイビスは「心理療法家の人類学」を書くことになった。そしてそれが可能だった。彼は心理療法家でもあったからだ。


そう、デイビスは右手を左手にぶつけてみた。手と手を合わせると、どんな音が鳴ったのか?

                               続く 

2018年5月7日月曜日

「アザンデ人の妖術師を見るように、現代の心理療法家を見る」―心理療法家の人類学 あとがき その①


 誠信書房より、翻訳書「心理療法家の人類学―こころの専門家はいかにして作られるか」が発売されます。2年以上かけて仲間と一緒に翻訳を行ったものです。

 詳しい本書の情報は以下の通り。

 また本書出版を記念したセミナーは以下の通り。

 とにかくこの本、英語の下手な私が一気読みしてしまうほど面白い本なのですが、心理療法を対象とした本格的な人類学の本は大変珍しいと思いますので、何回かに分けて私の書いたあとがきを掲載して、内容を周知したいと思います。


アンソロポロジー・オブ・XXX―監訳者あとがき

 本書はJames Daviesの「The Making of Psychotherapists - an Anthropological AnalysisKarnac 2009の全訳である。

 まるでアザンデ人の妖術師を見るように、現代の心理療法家を見る。

妖術によって人が死んだり癒されたりすることを、妖術師たちは霊が実在していて、それが働きかけているからだと説明する。だけど、人類学者は違う。人類学者はアザンデの言語体系、親族組織、死者儀礼などを精緻に調べ上げ、それらの社会的相互作用によって、妖術が機能していることを示す。本書において、デイビスは同じことを心理療法家に対して行う。

心理療法と人類学。この二つの相性は悪くない。フロイトの「トーテムとタブー」やユングの自伝を挙げるまでもなく、心理療法家はこれまでも人類学から多くの知を汲み出してきたし、逆に「文化とパーソナリティ」学派がそうであったように、人類学もまた心理療法から多くを得てきた。少なくともマクロ経済学に比べれば、人類学と心理療法は多くのものを共有していると言っていい。

しかし一方で、心理療法は本質的な部分で人類学を拒んできた。とりわけ、人類学者から「見られる」ことを拒んできた。いや、ときには見られることもあった。同じ社会を生きているから、顔を合わせることはある。ただし、レヴィ=ストロースの精神分析論がそうであったように、そのとき心理療法はよそ行きの服を着ていて、待ち合わせはホテルのラウンジであった。

それは人類学者に本当に「見られた」ことを意味していない。人類学者が誰かを見るとき、その誰かは普段着だったり、寝間着だったりする。ホテルのラウンジで1時間ほど話をするのではなく、相手のコミュニティに年単位で住まい、その日常に身を浸す。そうすることで、他なるものを包括的に理解しようとする。

心理療法が拒んだのは、これだ。そう、心理療法は自らのコミュニティに人類学者を迎え入れ、そこに住まわせ、細部まで見られることを拒んできた。包括的なエスノグラフィーの対象となることを拒んできたのだ(その詳細はイントロダクションで記述されている)

なぜなのか?なぜ心理療法は人類学者に見られることを拒んできたのか?そのようにして見られることによって何が起きてしまうのか?



この問いの答えは、実は本書をここまで読んできた読者の心のうちにあるはずだ(胸がざわつきはしなかっただろうか?)。そこにこそ、人類学のまなざしのもとで心理療法が何であるかが存在するわけだが、ここではしばし置いておきたい。その前に、そのような稀有な(ある意味で禁じられた)試みを可能にした本書の著者デイビスについて紹介しておこう。

なぜ彼は心理療法家の世界を人類学することができたのだろうか?
                              
                             (続く)
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ふしぎの国のデイケア その5

雑誌「精神看護」に「ふしぎの国のデイケア その5 治療者と患者―デイケアは笑う」が掲載されました。

癒すことで癒される。ケアすることでケアされる。そして、ケアされることがケアすることであるという「傷ついた治療者」について、デイケアに基づいて書いています。

よろしければご覧ください。

2018年4月25日水曜日

物語と極夜



角幡唯介さんの「極夜行」を読んで、Twitterに以下のように感想をつぶやきました。

「角幡唯介「極夜行」もの凄い。北極の太陽が上らない極夜を旅した本なのだけど、地理を探検するのではなく、心の中を探検しているという究極の心理主義が展開されてます。暗闇の中何度も探検の意味を語り直そうとした挙句、意味が繋がってく終盤は心理療法そのものです。心理士はこれは必読ではないか。」

「しかも、この本の読後感として、「人生の意味ってなんて人工的なものなんだろう」って思わされるんですね。僕は心理療法のことをとても考えましたが、読む人によってそれぞれ全く違う文脈で連想が膨らむ一作と思います。角幡唯介氏がご自身で最高傑作と書いてるけど、全く納得いきます。」


僕は面白かった本をTwitterで呟くと大体一区切りついて(ちなみに、あまり楽しめなかった本はつぶやかないようにしています)、関心は次の本に向かいます。

だけど、「極夜行」については、どうにも収まりがつかず、次の日になっても、つい「極夜行」のことを考えてしまうので、Blogで少し思ったことを書いてみようと思います。

Twitterのような文脈をぶった切るメディアでは上手く伝わりにくい類のことだと思うので。

ちなみに、僕の場合、何を読んでいても、結局心理療法のことを考えてしまうので(ライフワークってそういうものです)、話は心理療法と重なっていってしまうのだけど、それでもよければお付き合いください。

「極夜行」内容紹介

さて、内容ですが、Google books曰く、以下の通りです。


「ひとり極夜を旅して、四ヵ月ぶりに太陽を見た。まったく、すべてが想定外だった―。太陽が昇らない冬の北極を、一頭の犬とともに命懸けで体感した探検家の記録。」


まったくこの通りです。

登場人物は著者と犬だけなので、ひたすら独白が続くのですが、飽きることなく夢中で読める本です。

著者は暗闇を体験し、月を体験し、星を体験します。

そして、自分の体験から、「暗闇とは何か」「月とは何か」「星とは何か」「光とは何か」を語っていきます。

たとえば、次のような感じ(Kindleのハイライト機能はこういうとき便利だ)


「このように光があると人間の存立基盤は空間領域において安定し、同時に時間領域においても安定し、心安らかに落ち着くことができる。光は人間に未来を見通す力と心の平安を与えるのである。それを人は希望という。つまり光とは未来であり、希望だ。」


「闇は人間から未来を奪うのである。闇に死の恐怖がつきまとうのは、この未来の感覚が喪失してしまうからではないだろうか。闇は人間の歴史のなかで常に冥界や死と関連付けられてきたが、その恐怖の本質は闇そのものにあるのではなく、自己の内部で漠然と構築されていた生存予測が闇によって消滅させられてしまうことにあるのだ。」


このようにそこから得られる考察は大変示唆的です。

僕が生業としている心理療法にとっても重要なことが、深い説得力を持って描かれているように感じます。

その意味で、まぎれもなく、本書は名著です。大変な名著です。

だけど、ただの名著ではないです。

僕が引っ掛かり続けているのは、終盤です。


ありふれた、陳腐な洞察

長い旅の果てに、著者はある心理学的洞察に至ります。それはこの過酷な旅がご本人にとって、一体いかなる意味があったのか、一筋の縦糸を通すような洞察です。


問題はここです。

これは完全に僕個人の受け取り方なのですが、その洞察がとても「ありふれた」ものだと思うのです

場合によっては、陳腐と言ってもいいかもしれない(あくまで、僕はそう感じたということです。もちろん違う感じ方はあります)

そこにひっかかるのです。


もちろん、そのことは旅の価値を貶めるものでもないし、この本は間違いなく名著です。
だから謎です。

過酷にして、貴重な旅をして、そのプロセスをクールに、ときにユーモラスに描くような上質の考察を続けて、どうしてこんな「ありふれた」結論に至ってしまうんだ!?

そのことにひっかかり続けていたわけです。


しかし、徐々に、ここにこそ、この本の凄みがあるのではないか、と思うようになりました。

そのことを以下に書いてみたい。

自己を探検する

著者は現代社会には地理的な空白地域はなく、探検は不可能だ、と考えています。

つまり、地図の外にはもう出れない。そういう中で、探検をしないといけない。どうすればいいか?

その問いの答えが、この本では極夜でした。

つまり、極夜を「本当」に体験するというのは、システムの外側に出る探検的行為なのだと考えるわけです。


実はここでは探検の領域は、体験に置かれています。

その探検はもはや、世界ではなく、自己に向けられているのです。

だから、著者は繰り返し繰り返し、この旅の意義について、自問自答を続けます。

それはまさにギデンズという社会学者が「再帰性」という言葉で語ったことです。

自己を振り返り、省察し、自己の営みを意味付け、そうすることで自己を確認しながら、著者は旅を進めていきます。

それはきわめて、心理学的態度です。心理療法的態度です。

ハーバーマスが精神分析を自己反省の営みとしたように、著者は北極圏の極夜という、人間世界の外部に出ようとして、きわめて近代的で、人間的な営みを続けるのです。

その果てに「ありふれた」洞察があります。

ありふれた洞察が、旅全体を意味付け、意義を持たせ、著者の心にまとまりをもたせます。


なぜこれほどの旅で、こんなに陳腐な洞察なのか?

もしかして、この袋小路は僕らの生き方そのものなのではないか?


極夜を起動する

現代を生きる僕らには地図の外側が存在しません(共産主義の崩壊以降、資本主義の外部はもう存在しない)

でも、資本主義は常に外部を、フロンティアを求めるから、僕らは存在しない外部を探し続けます。

そこに、物語が必要とされます。


物語は外部のない世界に外部を作り出します。

「ハリーポッター」とは、イケてないどん詰まりの生活を送るハリー少年に、魔法の世界という外部をもたらす物語です。

物語によって、僕らはあっという間に日常世界の外部に連れ出されます。


それがよく現れるのは危機の時です。

ある日突然、大切な人に裏切られる。ある日突然、大切なものが失われる。

それは危機です。

危機だからこそ、僕らは物語を始めます。

僕らの人生はそのとき物語のとば口に立たたされて、そこから旅を繰り広げることになります。

そうじゃないと、僕らはその危機に持ちこたえられません。不可解なものほど恐ろしいものはないからです。

そして、物語によって僕らはその危機を心に収め(本当に大変なのだけど)、そして「人生の意味」という洞察を経て、まとまりを獲得します。


そして、それは人生の危機に限りません。

僕らは常に自己を物語り化せざるを得なくなっている。

僕らは自己省察から逃れられない。

僕らは自分の人生を絶えず、意味づけようとします、物語化しようとします。

外部を持たない僕らは、人生に耐えるために、筋の通った物語を必要とするのです。


それが、まさに極夜の探検家のなしたことです。

とすると、心理療法家とは、もしかしたら、北極圏に行かずして極夜を起動する仕事と言えるのかもしれない。

ありふれた洞察
ともかく、そうして最後に「ありふれた」洞察がやってきます。

れは言葉にしてしまうと、陳腐で、つまらないものかもしれない。

だけど、それは旅を通じて勝ち得た物語です。洞察です。

それは血肉化し、確かな縫い糸となるような何物かなのです。


そして、付け加えるならば、それは「ありふれた」ものだからこそ、価値があるものなのかもしれない。

「ありふれた」、陳腐なものだからこそ、僕らは日々の生活に帰着できるのかもしれない。

「ありふれた」ものを本気で生きることこそが、外部のない世界を生きる僕らが切実に必要としているものなのではないか?


こういう問いが、この文章を書かせています。

「極夜行」は僕に訴えかけます。

一体、人生の物語とは何なのか、洞察とは何なのか?

僕らが生きるとはどういうことなのか?

生きていることを振り返りながら生きるとはどういうことなのか?

そして、ありふれていること、陳腐であることとは、いったい何なんだ?


そういう問いがあって、長々と書いてきましたが、

未だ「極夜行」を消化できずにいます。

そういう意味で、この本は紛れもない名著です。

もしかしたら、それが一番言いたかったのかもしれない。

もしよければ、読んでみてください。

2018年4月24日火曜日

「心理療法の人類学」入門セミナーのお知らせ



「心理療法家の人類学」刊行記念
心理療法の人類学」入門セミナー
―人類学はケアをいかに変えるか?

翻訳書「心理療法家の人類学ーこころの専門家はいかにして作られるのか」(誠信書房)の出版を記念して、「心理療法の人類学」入門セミナーを行います。

「心理療法とはいかなる人類学的営みであるのか?」「よりよき心理療法のために人類学は何をもたらすのか?」「心理療法家になることで私たちは何者になるのか」をテーマにた入門編です。心理療法を学び、実践する過程で私たちは様々な疑問と出会いますが、人類学はそれらに対して従来とは全く異なる光を当ててくれます。そして、そのことによって私たちの臨床実践は変わっていきます。

本ワークショップでは臨床心理学者と医療人類学者がコラボレーションして、「心理療法の医療人類学」の世界をひらきたいと思います。



日時 722日 10時から17(途中1時間休憩)
場所 NATULUCK茅場町新館 3階大会議室
料金 早割9000(531) 通常11000
定員 40(先着順)
講師 東畑開人(臨床心理学) 中藤信哉(臨床心理学) 磯野真穂(医療人類学)
対象者 心の治療に関心のある方





*当日、特別価格での書籍販売があります



趣旨 
 心理療法は、悩みや生きづらさを抱えるクライエントと心理療法家の間で営まれる治療的営みです。一方で、「心のケア」の歴史を考えたとき、心理療法は人類学的な営みでもあります。つまり、チンパンジー同士で行うハグから始まり、原始のシャーマン、夢見る神官、科学的医師が担ってきたケアの役割を、現代の心理療法家は引き継いでいるのです。そのような観点から見たとき、心理療法とはいかなる営みに映るのでしょうか?そして、そのような人類学的認識は心理療法に何をもたらすのでしょうか?

 講師の一人である東畑は『野の医者は笑う』、『日本のありふれた心理療法』、そして新刊となる翻訳書『心理療法家の人類学』という一連の著作を通して、「心理療法の人類学」というプロジェクトに取り組んできました。確かな実体を持つように見える心理療法を、人類学によって相対化することで、心理療法のよりよい実践を目指してきました。

 本ワークショップは、人類学的心理療法論について平易かつ総合的に解説したいと思います。いわば、この分野に関心を持つ人のための入門編です。

 さらに、本ワークショップでは人類学者である磯野真穂氏を対話相手としてお招きします。磯野氏はこれまで、摂食障害や、医療における不確実性といった心理療法とも馴染み深いテーマの探求を続けてこられました。人類学者との対話によって、心理療法をどこまで揺らすことができるのか?そして、そのことによってよりよいケアは可能になるのか?そうしたことを一日かけて考えてみたいと思います。

 本ワークショップを通じて、従来とは異なる心理療法論の全貌を露わにし、学派を超えた新しい心理療法の語り方を提示できればと考えています。現在心の治療に携わっておられる方、あるいはそれを学んでいる方、現在心の専門家の養成に携わっている方々、そして心理療法というものの不思議さに戸惑っておられる方々にとって、有意義な学びの時間にしたいと考えています。

スケジュール

1部 10時から12
ケサリードのための心理療法論
―ヘルス・ケア・システム理論ー

 人類学者レヴィ=ストロースは魔法を信じていないケサリードが、魔法使いのからくりを知ったことで大魔術師になっていくプロセスを描いています。本パートでは、ケサリードが魔法を学んだようにして、心理療法のことを学んでみたいと思います。

つまり、心理療法は人類学的に解剖して、さらにそこから逆算することで、よりよき心理療法はいかにして可能なのかを考えてみたいと思います。このとき、特に医療人類学の泰斗アーサー・クラインマンの「ヘルス・ケア・システム理論」に注目し、事例の提示を行いたいと思います。

2部 13時から1445
心理的治療はいかにして可能か?
-「心理療法家の人類学Ⅰ」ー
 私たちの抱える問題のほとんどが、生物-社会-心理の3つの次元が関わっているものであることはよく言われます。その上で、特に人間の生物学的な側面にアプローチしていくか、社会的環境にアプローチしていくか、あるいは心理的次元にアプローチしていくかに、それぞれの専門性が宿ると言えます。

 本パートでは、問題の心理的次元にアプローチすることがいかにして可能になるのかを人類学的に検討してみたいと思います。そこには治療者側の働きかけがあり、そして心理学的作業があります。そのプロセスを具体的な事例を出しながら、人類学者と共に検討したいと思います。

3部 15時から17
心理療法家とは何者か? ―「心理療法家の人類学Ⅱ」
 本ワークショップの最後は、心理療法家その人について人類学したいと思います。私たちは何者であるのか?なぜ私たちは心理療法家を目指したのか?そして心理療法家になることによって私たちの心はどのように変化してしまったのか?そういった問題について、人類学的に考えます。

 「心理療法家になる」とはある意味で、とても窮屈なものです。それは心理療法の訓練が、様々な仕掛けを通じて、私たちを特定の主体へと象るからです。そのような訓練の仕組みを人類学的に検討しながら、心理療法家とは何者かを見てみましょう。それは現在、訓練に携わっている方や、訓練を受けている人にとって、自分が何に参与しているのかを知る機会になると思われます。


講師紹介
東畑開人
1983年東京都生まれ。京都大学教育学部卒、京都大学大学院教育学研究科博士後期課程修了。沖縄の精神科クリニックでの勤務を経て、現在、十文字学園女子大学専任講師。博士(教育学)・臨床心理士。著書に『美と深層心理学』(京都大学学術出版会2012)、『野の医者は笑う―心の治療とは何か』(誠信書房2015)、『北山理論の発見』(共著・創元社2015)、『日本のありふれた心理療法―ローカルな日常臨床のための心理学と医療人類学』(誠信書房2017)。訳書にDavies『心理療法家の人類学―こころの専門家はいかにして作られるのか』(誠信書房 2018)

中藤信哉
1985年兵庫県生まれ。京都大学教育学部卒、京都大学大学院教育学研究科博士後期課程研究指導認定退学。京都大学大学院教育学研究科附属臨床教育実践研究センター特定助教を経て、現在、京都大学学生総合支援センターカウンセリングルーム特定助教。博士(教育学)・臨床心理士。著書に『心理臨床と居場所』(創元社2017)。共訳書にDavies『心理療法家の人類学―こころの専門家はいかにして作られるのか』(誠信書房2018)。

磯野真穂
1976年長野県生まれ。オレゴン州立大学留学後、専攻を生理学から文化人類学に変更。早稲田大学文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)2001年よりシンガポール、2011年より日本に摂食障害の調査を開始。2011年から2016年まで漢方外来と循環器外来で不確実性をテーマにしたフィールドワークを実施。2016年より、「一億総やせたい社会を見つめる文化人類学ワークショップ・からだのシューレ」を開催。研究の関心は、身体、食、医療、科学技術。主な著書に『なぜふつうに食べられないのか拒食と過食の文化人類学』(春秋社)、『医療者が語る答えなき世界「いのちの守り人」の人類学』(ちくま新書)、“Fat Studies Reader(New York University Press,2009・分担執筆)など。


主催 白金高輪カウンセリングルーム 
協賛 誠信書房