2018年5月7日月曜日

「アザンデ人の妖術師を見るように、現代の心理療法家を見る」―心理療法家の人類学 あとがき その①


 誠信書房より、翻訳書「心理療法家の人類学―こころの専門家はいかにして作られるか」が発売されます。2年以上かけて仲間と一緒に翻訳を行ったものです。

 詳しい本書の情報は以下の通り。

 また本書出版を記念したセミナーは以下の通り。

 とにかくこの本、英語の下手な私が一気読みしてしまうほど面白い本なのですが、心理療法を対象とした本格的な人類学の本は大変珍しいと思いますので、何回かに分けて私の書いたあとがきを掲載して、内容を周知したいと思います。


アンソロポロジー・オブ・XXX―監訳者あとがき

 本書はJames Daviesの「The Making of Psychotherapists - an Anthropological AnalysisKarnac 2009の全訳である。

 まるでアザンデ人の妖術師を見るように、現代の心理療法家を見る。

妖術によって人が死んだり癒されたりすることを、妖術師たちは霊が実在していて、それが働きかけているからだと説明する。だけど、人類学者は違う。人類学者はアザンデの言語体系、親族組織、死者儀礼などを精緻に調べ上げ、それらの社会的相互作用によって、妖術が機能していることを示す。本書において、デイビスは同じことを心理療法家に対して行う。

心理療法と人類学。この二つの相性は悪くない。フロイトの「トーテムとタブー」やユングの自伝を挙げるまでもなく、心理療法家はこれまでも人類学から多くの知を汲み出してきたし、逆に「文化とパーソナリティ」学派がそうであったように、人類学もまた心理療法から多くを得てきた。少なくともマクロ経済学に比べれば、人類学と心理療法は多くのものを共有していると言っていい。

しかし一方で、心理療法は本質的な部分で人類学を拒んできた。とりわけ、人類学者から「見られる」ことを拒んできた。いや、ときには見られることもあった。同じ社会を生きているから、顔を合わせることはある。ただし、レヴィ=ストロースの精神分析論がそうであったように、そのとき心理療法はよそ行きの服を着ていて、待ち合わせはホテルのラウンジであった。

それは人類学者に本当に「見られた」ことを意味していない。人類学者が誰かを見るとき、その誰かは普段着だったり、寝間着だったりする。ホテルのラウンジで1時間ほど話をするのではなく、相手のコミュニティに年単位で住まい、その日常に身を浸す。そうすることで、他なるものを包括的に理解しようとする。

心理療法が拒んだのは、これだ。そう、心理療法は自らのコミュニティに人類学者を迎え入れ、そこに住まわせ、細部まで見られることを拒んできた。包括的なエスノグラフィーの対象となることを拒んできたのだ(その詳細はイントロダクションで記述されている)

なぜなのか?なぜ心理療法は人類学者に見られることを拒んできたのか?そのようにして見られることによって何が起きてしまうのか?



この問いの答えは、実は本書をここまで読んできた読者の心のうちにあるはずだ(胸がざわつきはしなかっただろうか?)。そこにこそ、人類学のまなざしのもとで心理療法が何であるかが存在するわけだが、ここではしばし置いておきたい。その前に、そのような稀有な(ある意味で禁じられた)試みを可能にした本書の著者デイビスについて紹介しておこう。

なぜ彼は心理療法家の世界を人類学することができたのだろうか?
                              
                             (続く)
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